![](_src/11043/sign.png)
![](_src/11064/0000_0naegizyo_4.jpg)
北恵那鉄道は、昭和53年9月18日。岐阜県の中津町駅から下付知駅まで伸びていた私鉄ローカル線「北恵那鉄道」22.1kmが廃止されました。今も残る廃線跡で一番の見所は、奇跡の鉄橋と言われる巨大鉄橋、木曽川橋梁です。そして、木曽川沿いの城山の岩峰に築かれた苗木城を探訪です。
![](_src/11093/sign.png)
![](_src/11047/sign.jpg)
北恵那鉄道廃線・木曽川木曽川橋梁
北恵那鉄道は、ダム建設の見返りとして私鉄ローカル線として建設されたが1978年9月に廃線されました。今なお名残をとどめる鉄道橋をめぐり、国指定史跡の苗木城を四十八曲りから探訪しました。
![](_src/11048/sign.jpg)
鉄道廃線木曽川橋梁
![](_src/11054/sign.jpg)
恵那峡口駅跡・建物は遊船乗り場移築
![](_src/11055/sign.jpg)
北恵那鉄道廃線・上地橋梁
城山(苗木城)の東麓にある上地橋梁は、レンガ積みの橋脚が近代遺産のような重厚さがあり、背が高くとても美しいです。
![](_src/11060/n401_22.jpg)
上地橋梁
![](_src/11056/sign.jpg)
上地橋梁を上部から
![](_src/11062/sign.jpg)
レトロな上地の橋梁
![](_src/11067/sign.png)
ここから苗木城へ登る道を”四十八曲り道”と言い、三の丸跡まで約500m、標高差150mの急峻な道です。この道は別名”大手口道”とも言われ、領主の参勤交代等には、この道が使われていとのこと。古記録によると、「本丸まで48回曲る道」となっており、この道の由来となっている。
![](_src/11066/sign.jpg)
つづら折りに登ると腰郭の石垣が
![](_src/11068/sign.jpg)
石垣が連続してみられる
![](_src/11069/sign.jpg)
石段らしき敷石が
![](_src/11070/sign.jpg)
上地橋梁を見下ろす
![](_src/11071/sign.jpg)
腰郭の石垣が続く
![](_src/11072/sign.jpg)
隅石が確認できる
![](_src/11073/sign.jpg)
竹門跡の石垣
四十八曲りを登りあがると竹門跡に出る。竹門という名前の門は、苗木城に2か所あった。いずれも城の外、外郭部にあり、名の由来は、扉が竹で作られていたことからきていて門番がいなかったとされる。ここを過ぎると駈門跡へ。
![](_src/11075/n401_22.jpg)
竹門跡
![](_src/11074/sign.jpg)
竹門跡から駈門跡へ向かう
![](_src/11077/sign.jpg)
駈門跡に着く
駈門跡から三の丸に着く。三の丸は城内一の平場で武者溜りを意図されたもの考えられている。北側に大矢倉ががある。大矢倉は城内で最大の防護施設の櫓。
![](_src/11079/n401_22.jpg)
駈門跡・虎口石垣が残っている
![](_src/11078/sign.jpg)
南側に風吹門跡
![](_src/11057/j_3097_3.jpg)
大矢倉
![](_src/11052/yari_033.jpg)
大矢倉
![](_src/11085/sign.jpg)
大門跡
![](_src/11086/sign.jpg)
坂下門跡
![](_src/11081/sign.jpg)
千石井戸と本丸口門跡
![](_src/11082/sign.jpg)
二の丸・領主遠山家の住居や家臣が集まる部屋があった
![](_src/11083/sign.jpg)
玄関口門跡
![](_src/11084/sign.jpg)
玄関口門跡
![](_src/11087/sign.jpg)
![](_src/11088/sign.jpg)
苗木城天守跡
天守からの一番の見どころは、木曽川に架かる奇跡の鉄橋と言われる巨大鉄橋、木曽川橋梁です。その北恵那鉄道木曽川橋梁から山頂の天守跡までは、標高差約170メートル。急峻な四十八曲りルートを登り苗木城に立つ。レトロな廃鉄橋梁を巡りロマンの苗木城を探訪してカントリーウォークが楽しめました。